触れられないもの

形がないものについて語るブログ

マナーとはなにか、から思い出したいろいろ

人のためなのか、自分のためなのか

ちょっといまTwitterで見かけたんです。

マナーや作法は本来周りを気持ちよくさせるためのものなのに、それを押し付けるようになった途端、それらはイライラするようなことが増える元になってしまう、的なツイート。

確かにマナーや作法というのは人が集団の中で行きていくことで必要なものだと誰もが思っていることなんですけど、それはいったい誰のためなのか。

自分のためなのか、他人のためなのか。

これ、僕は答えとその理由をプロの方から聞いたことがあるので参考程度に読んでもらえたらと思います。ちなみにこのツイートをされた方は「マナー、作法は他人のためにするものだ」というお考えなのですね。

もちろん、それを否定するのではありません。人は人の気持があり、自分には自分の気持ちがあります。どちらかがどちらかを論破することが正しいことなのではなく、そこに「そういう自分と違う考え方があり、それを受け入れる」ことも大事なこと。

それもまた一つのマナーなんですよね。

マナー、作法とは

たとえば、マナーや作法がなにもない無法状態に人がたくさん放り込まれたとします。人はぶつかり、誰かのワガママのせいで傷つき、もしかするとイライラして傷つけようとする人がでてくるかもしれません。だってだれもが「他人への配慮がない」のですから。

そんな中で誰かが言い出します。「色んな人が好き勝手にやることは傷つく人や困る人を増やすので、お互いを尊重できるような行動指針のようなものを作ろうよ」って。

それがやがてルール、マナー、作法といったものに進化していきます。

でもそれは「相手にそれを求める」のではなく、「自分が自分の行動について周りの人たちに対して配慮する」ことから始まるといいます。

「誰かに求める」ことは「お前は正しい、間違ってる」を突きつけることになります。そうではなくて、マナーというのは「周りの人に受け入れてもらうために模範とするべき行動や考え方」ということで生まれたと教えられました。

そう、他人のためにするのではなく、「自分を受け入れてもらいたいからする」行動なのだそうです。

たとえばテーブルマナー。この目的は「お前のテーブルマナーは間違ってる!」とやりあうことではないんですよね。正しいテーブルマナーを理解することで周りの人と楽しく食事をすることができ、楽しい会話を楽しむことが出来るわけです。

レディーファーストもそう。女性だからなんでも優先したらいい、という発想で「相手を優先させる」にこだわるのではなく、自分が先に行動することでエスコートできることもある、ということです。

エレベーターから出ない男性の話

以前働いていた会社はビルの中。ビルの出入りはエレベーターで行います。たとえば同じ階で数名の方が降りる場合、「開」ボタンを押し続けてあげるというマナーがありますよね?そのままにしておくと自動的に閉まってしまうことがあるので。

その男性に悪意があるわけでもなんでもないんです。自分以外に降りる人がいるのが分かっていたので「開」ボタンを押し続けてくれたんですが、それがドアの前。降りる人の見事にじゃまになり、その人にぶつからないと降りられない本末転倒。

この場合は「レディーファースト」とか「最後まで降りる人のためにボタンを押す」とかいろんなことを考えないで「自分がさっさと降りてドアに手をかけて締まらないようにする」という発想が出来たほうが周りと溶け込めるよね、と思うわけです。

ちょっと例えがずれてしまったんですが、サラッとこういう行動が取れる人のほうが他人への配慮が見えて嬉しくなります。

ほら、さり気なく女性を車と接触しない側にエスコートできる男性ってカッコよくないですか?ルールとかマナーとかレディーファーストとかを意識させずにサラリとやってしまうひと。日本人にはホントすくないんですが、外国から来日しているヨーロッパから来られてると思われる人たちにはよく見られる光景です。

京都の市内で車を走らせていると見かけるのが

  • 車が間近まできてから彼女の袖を無理やりひっぱる日本人彼氏
  • 道路を歩く時点で車が通らない壁側に女性をさり気なくエスコートして歩く外国人観光客
  • 後ろに車がきていても我関せずの中年日本人観光客

もちろん徐行して走るんだけど、3名で横並びで歩くとかはちょっとさすがに。

他人は変えられないけど・・・

よく言うじゃないですか。他人を変えるのは大変だけど、自分を変えることはできるって。いやいやそうは言うけど自分を変えるのも大変です。

でもその変化が「他人から受け入れられるための変化」だとしたら?少しは前進しやすくなるかもしれないですね。

まあそんな感じです。